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2017.9.20 wed - 10.3 tue

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SPECIAL INTERVIEW

「どこが?」「だれの?」「どうして?」

手塚治虫がマンガに込めた想い

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1946年にデビューし、約700タイトルもの作品を通じてメッセージを発信し続けた手塚治虫先生。
モノ作りを続けるのは強い思いがあったからこそ。
手塚先生がマンガに込めた「どこが?」「だれの?」「どうして?」を担当編集者として、マネージャーとして長い時間をともに過ごした手塚プロダクション社長の松谷孝征氏に伺いました。

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とにかくマンガが大好きだった

手塚はとにかくマンガが好きでした。描いていて楽しくて仕方がないという感じでしたね。勿論締切り間近の原稿が次から次で、寝る間も惜しんで描いているときは別ですが。アニメに関しては中学生の時に観たアニメーションに触発されて将来は必ずアニメーションを作ると決意したようで、18歳の学生の時には連載を持ってマンガ家としてデビューしています。手塚のマンガのテーマは自身の戦争体験がすごく大きくて、命の尊さ、平和の大切さを未来ある子どもたちに伝えたいという思いを強く持っていました。子どもたちに何かを伝えるのにマンガほど適した媒体はないんではないでしょうか。手塚はそれを早くからわかっていたんだと思います。マンガの表現能力の素晴らしさも含めて。手塚がマンガで伝えようとしていた根本的な考え方はデビューの頃から最後まで変わっていないと思います。時代物であっても未来物であっても、どの作品を読んでも命の大切さが必ずその根底に流れていますから。

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自分にも周囲に対しても妥協しない

昔は音楽家や芸術家などと違って子どもマンガ家というのはずいぶん下に見られていました。手塚の描くマンガも時には批判や反発もありました。ですが描いているテーマというのは決して悪いものではありませんでしたから、周囲になにを言われても変えることはなかったですね。強すぎる表現は控えたり、描き方に配慮したりはしていましたけど。性などタブー的なところにも踏み込むこともありましたが、人間にはそれだけいろんな幅があると考えていたんじゃないでしょうか。手塚は仕事のことしかアタマにないような人間で、せっかくアシスタント制を確立したのだから少しは人任せでもいいのにと自分なんかは常々感じていました。その方が原稿だって早く仕上がるわけですから。それでも妥協したくない、任せることでブレてしまうと思っているようなところがあって、何もかも自分でやっていましたけどやっぱりできあがった原稿を読むとおもしろいんですよね。締切りもとっくに過ぎて待たされていた編集者も何も言えないですよ。妥協がないのは自分たちスタッフに対しても同じでした。仕事が終わらない、でも翌日には北陸に講演会に行かないといけない。「先生、もう無理ですから講演は断りましょう」とこちらが言っても、必ず「なにか方法はないですかね?」と返してくるわけです。こちらも必死に考えて、それでもどうやったって無理だとわかったらひと言「そうですか」と。最後まで懸命に努力することをスタッフにも要求していましたね。

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読者に最高のマンガを読んでもらいたい

手塚はマンガを読む子どもたち、読者こそがいちばんと考えていました。ある時「ブラック・ジャック」の原稿だったのですが、あと1ページ描けば完成というところで自分や編集者、アシスタントに感想を聞いて回ったんです。そこでアシスタントのひとりが「いまいちですね」と答えたのを聞くと「全部、描き直します」と言ったのです。編集者も印刷所も夜中に待機している状況でですよ。それでも読者にいちばんいいマンガを読んでほしいと思うから、手塚にとっては当たり前のことなんです。その時の「ブラック・ジャック」も夜中過ぎから朝までに見事に描き上げましたよ。手塚はよく「原稿料はあげないでください」と言っていました。高くなりすぎると仕事が来なくなると思っていたみたいで、描くのが大好きな手塚にとってそれはすごく困ることだったんです。最後の頃は大人向けのマンガが多かったんです。周囲からすれば週刊誌でも月刊誌でも連載を持っていて、もうこれ以上は描かなくていいんじゃないのかと思うんですけど、「子どもたちが読む少年誌に描かないと意味がないんです」って手塚は言い続けていました。誰のために、何のためにマンガを描いているのかというのはいつでもハッキリしていましたね。

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手塚の思いを伝え続けていきたい

自分が小学生の頃に「アトム大使」、後に「鉄腕アトム」の連載が始まって、月刊誌を買って読んでいたんですけど、小学生の私は単純ですからスポーツマンガなどの迫力ある絵と分かりやすいストーリーに惹かれるわけです。それに対して手塚のマンガはコマも小さい、セリフも多い。それぐらい伝えたいことがマンガに込められていたということなんですけど、小学生の私には理解するのが難しかった。それが大人になって手塚の担当編集者になったのを機に「鉄腕アトム」を全部読み返したら全然印象が違うんです。「そうか手塚はこういうことを子どもたちに伝えたかったのか」と。それが27歳の時でした。それから自分が36歳の時に「鉄腕アトム」のテレビシリーズが企画されて、また全部読み返したんです。そしたらまた感じ方が全然違う。実は手塚がいなくなった時、もう会社を辞めようかと思ったんです。「手塚治虫が仕事をしやすい環境を作ること」が自分の役割だと思っていましたから。ですがある出版社と手塚がすすめていた随筆や講演をまとめた文字の出版物を完成させるために、講演会のテープなどを7〜8本聴いて原稿を書き起こし、まとめたことがありました。その作業中に「先生はこんな思いで仕事をしていたんだ」と改めて手塚の思いが伝わってきました。子どもたちのためであり、未来のためであり、手塚が誰のために何のためにマンガを描き続けていたのか。(気づくのがちょっと遅すぎましたけど)それを世の中に伝えていくのが手塚プロの仕事だと思っています。